連載第4回 北の土器、北の人々

                  

文/岡山県古代吉備文化財センター 石田 爲成

   



     弥生時代の人々にとって、土器は生活に欠かせないものでした。人々は、土
    器を、米やその他の料理の煮炊きといった調理に、水や食物の貯蔵に、一部
    は食器に、そして時にはお祭りの道具として使っていました。
      また、当時の人々は、時代や地域ごとに独自の形や文様を持った土器を使
    用していました。

      現代に生きる私たちのファッションにも、流行(はや)り、廃(すた)りがあるよ
    うに、土器も時代や地域によって流行があったようです。そして、現代の私たち
    は、それらの差を見つけ出すことで、いつの時代にどこで作られた土器かを知
    ることができるのです。

     実際に、発掘調査やその後の整理作業の中で、私たちはしばしば見慣れな
    い土器を目にします。それらの土器は、地元の土器とは粘土や形、文様などが
    異なり、他地域の影響を受けているか、直接持ち込まれているかのどちらかが
    考えられるのです。

      このような土器が出土するのでしょうか?もちろん土器だけが勝手に動いた
    とは考えられません。当然、土器を携えて移動した人々の存在があるに違いあ
    りません。つまり、土器の動きは、当時の人間の動きを知る手掛かりとなり、弥
    生時代の人々の交流の一端を教えてくれるのです。




塩町式土器

広島県北部から持ち込まれた土器(塩町式土器:哲西町山根屋遺跡)



      県北西部の中国山地に位置する哲西町山根屋遺跡では「塩町式土器」と呼
    ばれる、装飾性豊かな土器が出土しています。この土器は、弥生時代中期後
    半(約2100年前)に現在の広島県北部の山間部を中心とする地域で使われて
    いたものです。


津山盆地周辺地域の土器

津山盆地周辺地域の土器(奥津町夏栗遺跡)
(よみがえる久田の歴史より引用、一部改変)





      広島県側から直接持ち込まれたと考えられ、山間部間の交流を示す資料で
    す。同じ中国山地に所在し、近年調査された奥津町夏栗遺跡で出土した土器
    に見られるように、岡山県北部の津山盆地周辺でも、土器の形や文様に個性
    が表れています。

      これら中国山地の塩町式土器や津山盆地周辺の土器は、同時期の瀬戸内
    海や日本海沿岸部の土器に比べて、装飾性が高いという点で独自色が強く、
    異彩を放っています。

      一方、日本海沿岸部では、現在の島根県を中心とする地域に塩町式土器が
    持ち込まれたり、津山盆地周辺の土器と、峠を越えた日本海側の鳥取県倉吉
    市周辺の土器には共通性が認められることから、山間部の人々が、日本海沿
    岸部と交流を持っていたこともわかります。

      現在では、過疎化が進み、都市との格差が目立ち不便な印象をもたれる山
    間部ですが、当時は、山陽と山陰を結ぶ交流の拠点として、重要な役割を担っ
    ていたと考えられます。山間部の人々は、東西南北の様々な情報が行き交い、
    社会が均質化する中、自分たちの集団の存在を土器に示したかったのでしょ
    うか?


県南部の土器

県南部の土器(中期後半:岡山市津島遺跡)




     弥生時代後期(約2000年前)になると、岡山県北部の地域は山陰地方と共
    通性の強い土器を作るようになり、県南部の土器との違いが際立つようにな
    ります。
     このようなことから、中期後半以降継続的に、山間部の人々は日本海沿岸
    部の人々と積極的に交流を行っていたものと考えられます。

     瀬戸内海側の県南部では、楯築墳丘墓から見下ろせる位置にある岡山市
    仏生田遺跡から、弥生時代後期後半(約1800年前)の山陰系の甕が出土し
    ています。
      ほぼ同時期には、県南部で特別に作られた特殊器台・特殊壺が、葬祭用
    の土器として、島根県出雲市西谷3号墓などにわざわざ運ばれています。

      県南部と山陰との交流を示すものとして注目できますが、これは、首長間の
    政治的な交流で、一時的なものと考えられます。その後の土器の動きを見る
    限り、頻繁な交流ではなかったようで、県南部と県北部では、交流の在り方が
    違ったようです。
      現在の岡山県域は「吉備」として一つのまとまりであったように思われがちで
    すが、弥生時代には県北部と県南部では、違う考えを持った人々の集団が存
    在していたのです。

     では、なぜ、山間部の人々は、山陰の人々と積極的に交流を行ったのでしょ
    うか?近年、日本海沿岸の地域では、質量とも豊富な遺物が出土している鳥
    取県鳥取市青谷上寺地遺跡のように重要な発見が相次いでいます。当時、
    最先端の道具であった鉄器の出土量は、瀬戸内海沿岸部の地域をも凌ぐも
    のです。

      中国大陸や朝鮮半島、そして当時、日本列島の先進地であった北部九州に
    近いという、地理的な特徴もあります。日本海沿岸部は、日本列島の表玄関と
    して、海上交通を介して最新の情報や鉄などの文物がダイレクトに入ってくる、
    重要なルートであったのです。

      山間部の人々は、そのような山陰地方と自ら積極的に関わりを持つことで、
    より速く、先進の情報や文物を入手しようとしたのではないでしょうか。


弥生時代後期の土器

山陰地方と共通性の高い県北部弥生時代後期(から古墳時代)の土器
(湯原町ヒロダン・小坂向遺跡)





    今回は、土器から、山陰との交流を考えてみました。現代社会では、人や物の
   移動や交流は、弥生時代の人々にとっては想像もつかないほど、グローバルな
   ものになっています。しかし、その反面、地域の個性や特徴といったものが、失
   われつつあることも確かです。

     私たちが使用した道具が、数百年後の調査員によって発掘された時、いつ、
   どこの地域の人間が使っていたものなのか?そして、人々はどのような交流を
   していたのか?果たしてわかるのでしょうか・・・。




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