連載 第2回石は物語る

                  

文/岡山県古代吉備文化財センター 小嶋 善邦



       「毛皮を纏(まと)った集団が歩いている・・・」と想像していただきたい・・・。

 

       『彼らは長距離を移動してきたのか、疲労困憊(ひろうこんぱい)しており、
     槍に寄りかかりながら歩いていた。槍の先は太陽の光を浴びて、しばしば
     煌(きら)めいていた。
       槍先の両側には、直線状に並べられた長さ4cm大の、カミソリの刃のよ
     うに薄い石器が付いている。

       うつむきながら歩いていた彼らが、ふと、遠くに視線をのばすと、動物の
     群れが見える。何日も食事をしていなかった彼らにとって、久しぶりの獲物
     である。男たちはゆっくり動物に近づき、一斉に槍を投げつけた。


       それらは綺麗な放物線を描き、一頭の動物を仕留めた。男たちは動物を
     解体し、食事を始めた。一人の男が肉にかぶりついたとき、歯に固いもの
     が当たった。
       口から出してよく見ると、槍先についていた石器のひとつであり、獲物を
     仕留めたときの衝撃で折れてしまっている。

       男はその石器を無造作に放り捨てた。食事を終えた彼らは、槍の補修を
     始めた。一人の男が、肩に提げていた袋から拳大の石とシカの角を取り
     出し、角をその石に当て、力強く押しつけ始めた。
       見る間に、槍先の両側に付いていたのと同じ石器が作られ、それを槍先
     の抜け落ちた部分に着けたのである。そして男たちは新たな獲物を仕留
     めるために立ち去り、その場には折れた石器だけが残された・・・。』





      これは、今から約1万3千年前、現在の岡山県上斎原村恩原(かみさい
     ばらそんおんばら)でも繰り広げられていた情景である。ここで、残された
     石器と男が手にした拳大の石を見てみよう。

      残された石器は、カミソリの刃のように薄くて鋭利な石器(長さ4cm前後、
     幅1cm以下、厚さ1−2mm程度の縦長剥片)で、細石刃(さいせきじん)と
     呼ばれるものである。拳大の石は、現代の私たちが湧別技法(ゆうべつぎ
     ほう)と呼んでいる細石刃剥離技術(さいせきじんはくりぎじゅつ)から作ら
     れた細石核(さいせきかく)(細石刃を作るための母型)というものである。
       これらの石器の石材は、東北地方の日本海側が原産地である珪質頁岩
     (けいしつけつがん)にとても似ている。



サヌカイト製石器
サヌカイト製石器(野原遺跡群早風A地点出土
遺跡からサヌカイト原産地(香川県坂出市)まで直線距離にして約100km離れている。どのような経路で遺跡にもたらされたのだろうか。


黒曜石製石器
黒曜石製石器(野原遺跡群早風A地点出土)
遺跡から黒曜石原産地(島根県隠岐島)まで直線距離にして約150km離れている。この石材もどのような経路で遺跡にもたらされたのだろうか。




       さて、手に持つことも難しくまた簡単に折れてしまうような細石刃は、どの
     ように使用されていたのであろうか。外国の発掘調査から、細石刃は、お
     もに軸となる槍先に細い溝を彫り、その溝に直線状に並べて嵌(は)めこ
     んで用いられていることが判明している。男が持っていた槍が、まさしくそ
     れである。

       また、湧別技法とは木の葉形の両面調整素材(りょうめんちょうせいそざ
     い)(1)を用意し、その素材の長い一側縁に沿って数枚の削片(さくへん)
     (断面三角形またはスキー状の削片)(2)をそぎ落とし、平坦な打面をも
     つ細石核をつくり、そして打面の一端から細石刃を剥離(3)する技術であ
     る。
       この技術は、おもに中国・シベリアから東北日本で使用されている。





製作工程1
製作工程2
製作工程3
製作工程4
湧別技法による細石刃製作の模式図(稲田孝司『遊動する旧石器人』岩波書店2001 より引用・一部加筆)



      では、湧別技法が用いられている地域から遠く離れた恩原でその技法が
     使用されていること、さらに、珪質頁岩に似た石材が出土しているというこ
     とは何を示すのか。



     ・・・「ヒトの移動」である。・・・



       石器を詳しく観察すると様々なことが見えてくるが、分からないこともまた
     多い。その最たるものが、「なぜ東北日本の集団がはるばる恩原に来たの
     か。」ということである。
       彼らはどのような目的で来たのだろうか。未知なる土地へのあこがれか、
     それとも、今まで生活していた東北日本の環境が変化して、否応なく住み
     慣れた土地を離れて来たのか。現在、私たちにはそれを知る術はない。

     しかし、どのような理由にしろ、東北日本で生活していた集団が恩原に来た
     事実は、恩原に残された石器が物語っている。








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