大地からのメッセージ(7) 弥生住居と集落

                  

文/岡山県古代吉備文化財センター 高畑 知功




    吉備の米作りは、米の特性を熟知した弥生時代の人々により県南の沖積平
   野を中心に開始され、またたく間に県北の地にまでおよんでいます。

     この事実は、発掘調査により弥生時代の集落から発見される水田・用排水路
   などの遺構や、石包丁・石鎌・木製の鋤(すき)・鍬(くわ)等の稲作関連の遺物
   からうかがい知ることができます。

    従来の採集・狩猟・簡易な栽培が主であった縄文時代の生活にくらべ、重要
   な食料源となる米作りを受容した人々が開田・造田の共同作業や、配水・種籾
   等の管理を通して、労働力の組織化をはかり、安定した農村集落を各地に展
   開させていったと考えられます。

    さて、それでは農村集落を形成した弥生時代の人々はどのような「くらし」をし
   ていたのだろう。どんな家族構成で、どんな家に住み、どんな生活を営んでいた
   のだろう。子供たちは終日どのように過ごしたのだろう。男女の役割分担はあっ
   たのだろうか、と考えるとき、何百万年も前から脈々と流れている人類の歴史
   を飛び越え、現実の我々の生活に重ね合わせ、家族構成は当然現在と同じと
   して思いを巡らしていることが多いと思います。

    しかし、遺構・遺物を対象とした考古学的な手法による「くらし」の復元にはお
   のずと限界があります。まして、家族とか遊びとか言葉のように痕跡が形として
   残らないものは、さらに復元を困難にしています。

    反面、住居、掘立柱建物・袋状土壙・土壙・井戸・溝のように地面を穿って作
   られたものは痕跡を形としてとどめており、我々に過去の重要な情報を提供し
   てくれます。
    そこで、近年発掘調査が行われた勝央町内にある小中遺跡の集落の一部
   を上空から覗いてみます(写真)。

小中遺跡
勝央町小中遺跡 弥生時代中・後期の集落




    日当たりのよい丘陵の南向き斜面を中心に8軒の竪穴住居(A−J)、東西の
   竪穴住居に挟まれた場所には倉庫と考えられる4棟の掘立柱建物(O−R)と
   広場・道(T)、東西二カ所に四棟の共同作業場(K−N)、その他の構造物(I)
   柱穴等が写っています。

    竪穴住居は入母屋造りと考えられ、床面積は十平方メートル前後の小形から
   六十平方メートルの大形、中でも二十から四十平方メートルの中形が多数を占
   めます。しかし、すべてが同時併存ではなく、たとえば弥生中期の遺構はA・B
   住居とL・Mの共同作業場、O−R等の掘立柱建物からなり、この丘陵では六軒
   の竪穴住居が集落の単位を構成しています。

     後期では西側にまとまる五軒の竪穴住居間の距離、切り合い、出土した土器か
   らC・D・E・Fの各住居が順次作られたことが判明しており、総じて大型化傾向を
   示しています。なかでも後期中葉のD住居では同心円状に三回の建て替えを繰り
   返し、床面積が当初の二倍以上に拡張されています。

     後期後葉ではG住居のように中→大→小と拡張、縮小が行われ床面積が二分
   の一以下になり小形化に向かいます。弥生時代の集落規模の変動は、その集団
   が持つ安定した生産、経済基盤に大きく左右されることもさながら、集団をとりまく
   周囲の経済的な環境が最も投影されているようです。

     他の地域では、次の古墳時代のはじめには床面積が百四十平方メートル(四
   十二.五坪)の方形の竪穴住居が忽然(こつぜん)と姿を現しています。


家形土製品
総社市横寺遺跡出土 家形土製品(弥生時代後期)


絵画土器
総社市窪木薬師遺跡出土
絵画土器(弥生時代中期)


竪穴住居
鏡野町九番丁場遺跡の竪穴住居
(弥生時代後期)



津山市沼遺跡の復元住居
津山市沼遺跡の復元住居




※グラフおかやま1997年10月号より転載






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