矢倉〈やぐら〉城跡 (町指定文化財)    吉備中央町納地



 吉備中央町の西寄り、「道の駅かよう」の北4qの地点にそびえる標高589mの矢倉山。この山頂部に矢倉城跡(矢倉畦城跡)は築かれています。

山頂に矢倉城はあります
山頂に矢倉城跡はあります

 山の斜面には人家や棚田が営まれており、山頂近くまで車で行くことができます。標柱に従って20分ほど山道を歩くと、開けた視界に急峻な斜面がせまってきます。高さ3〜5mもあるこの斜面をよじ登ることは容易ではありませんが、山道を上がって行くと、ようやく山頂の主郭〈しゅかく〉にたどり着きます。

急峻な斜面。この向こうに主郭があります
急峻な斜面。この上に主郭があります

 平面が不整な六角形をした主郭の広さは東西56m、南北50mあり、その周囲には高さ1m余りの土塁がめぐっています。主郭の中央には、長さ25m、幅15m、高さ50〜80pほどの土壇があります。現在は城跡の説明看板が設置されていますが、かつてはここに建物が設けられていたのかも知れません。また、主郭のすぐ外側には井戸跡と伝えられる円形のくぼみも残っています。

土塁の頂部。屈曲している様子がわかります
主郭を取り巻く土塁。屈曲している様子が分かります。
井戸とされている遺構です。
井戸とされている遺構です

 さて、この城の主と伝えられるのは、田中盛兼〈たなかもりかね〉です。「太平記」によると身の丈7尺の大男で、元弘3年(1333)4月3日に赤松円心に従って六波羅探題〈ろくはらたんだい〉の攻撃に参加、矢を20〜30筋も射込まれるという壮絶な最期を遂げています。この田中氏は上竹荘〈かみたけしょう〉を本拠とする武士でしたが、天正2年(1574)に始まる備中兵乱では備中松山〈びっちゅうまつやま〉城主の三村元親〈みむらもとちか〉に与して没落します。その後、この城に入った毛利氏の部将難波親俊〈なんばちかとし〉は天正10年に備中高松城へ加勢に赴き、城主の清水宗治とともに切腹して果てました(調査員だより第14号参照)。これ以降、矢倉城の名は文献から見えなくなります。


 ところで、矢倉城跡のような単郭構造の城跡は、町内でも豊野の羽子田〈はねだ〉城跡(町指定史跡)、吉川の菅野〈すがの〉城跡・丸山〈まるやま〉城跡(町指定史跡)など、旧賀陽町域にまとまって見られます。これらの立地は様々で、居館なのか砦なのか、発掘調査が行われていない現状ではにわかに判断できませんが、築造にあたって技術や情報が互いに共有されていたのか大いに気になるところです。


羽子田城の堀切
羽子田城跡の堀切
丸山城の土塁
丸山城跡の土塁

丸山城西側の水田。城を取り巻くように弧を描いています。堀跡でしょうか
丸山城跡西側の水田。城を取り巻くように弧を描いています。堀跡でしょうか


 *岡山道賀陽ICから北へ約7km、そこから徒歩約20分

矢倉城跡アクセスマップ
矢倉城跡アクセスマップ

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