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 このコーナーでは、中世城館跡総合調査を担当している調査員からのホットな情報をお届けします。 この便りを通して、調査の様子を感じ取っていただき、興味・関心を深めていただければと思います。

<平成26年度>

 第19号

平成26年度を振り返って

 3月初旬には現地調査を終え、現在は調査結果をまとめているところです。

 今年度は、岡山市(旧岡山市・御津町)、吉備中央町、勝央町の1市2町に所在する334か所の城館跡(伝承地を含む)を対象に調査を行いました。その結果、曲輪〈くるわ〉や土塁〈どるい〉、堀切〈ほりきり〉などの施設を確認した城館跡は140か所、城館跡の可能性がある場所は42か所ありました。一方、平坦地はあるものの土塁や堀切などの防御施設がない場所や、文献等には書かれているがその所在地が特定できない城館跡も152か所ありました。

 現地調査には129日を費やし、夏を除いて週3〜4日、年間では1日おきのペースで城館跡へ出かけていたことになります。それ以外はセンターにて、現地で記録した図面や写真の整理作業、文献調査、地名調査などを行ってきました。なかでも、現地調査では大きな城館や複雑な縄張り以外にも、現地にたどり着くまでの険しい道のりや行く手をはばむ深いヤブ、突然現れる危険な動植物に日々悩まされることもしばしばありました。

 そこで、今年度の現地調査を振り返り、すっかり中世城館跡の魅力に惹きつけられた調査員3名の感想を紹介したいと思います。

 ■感動した城館跡
 ・備中高松城〈びっちゅうたかまつじょう〉跡(岡山市北区高松)
   … 歴史が大きく動いた瞬間に立ち会える場所。
 ・庭瀬城〈にわせじょう〉跡(岡山市北区庭瀬)
   … 城館や町並みを活かした地元の方々の積極的な取組。
 ・徳倉城〈とくらじょう〉跡(岡山市北区御津河内)
   … 迫力がある石垣、虎口〈こぐち〉、櫓台〈やぐらだい〉。
 ・金川城〈かながわじょう〉跡(岡山市北区御津金川)
   … 備前随一の規模を誇る複雑な縄張り。

 ■うれしかったこと  
 ・城館跡に通じる道や城館にまつわる話を地元の方々から聞かせていただいたこと。  
 ・地元の方々が城館跡の標識や解説看板を現地に設置されていたこと。
 ・本丸跡とその周りを毎朝清掃しておられる方にお会いしたこと。
 ・多くの方々から調査に御協力や御配慮いただいたこと。

 ■大いに役立ったもの
 ・城館跡の図面
   … 城館跡の規模や縄張りを事前に確認でき、効率よく調査を進めることができた。
 ・GPS(GNSS受信機)
   … 精度の高い図面を描くことができ、自分の居場所も把握できた。
 ・虫除けネット
   … これを被るとヤブカやハチ、クモの巣なども気にならなった。

 以上はほんの一部。このほかにもここでは語り尽くせないほど様々なことがありましたが、おかげさまで多くの方々の御協力により、無事に今年度の現地調査を終えることができました。

 さて、平成27年度は岡山市(旧建部・瀬戸・灘崎町)のほか、美作市、奈義町、美咲町、西粟倉村を対象に調査を実施する予定です。いよいよ美作国の中世城館跡を本格的に攻めますので、さらなる調査成果に御期待ください。(S・Y・U)

きれいに管理されている金川城跡 草木が生い茂るなかでの現地調査
きれいに管理されている金川城跡 草木が生い茂るなかでの現地調査

 第18号

ふるさとの山城を再発見してみませんか?

 みなさんは城の名前をいくつか御存知でしょうか?

 平成25年度から取り組んでいる中世城館跡総合調査も2度目の冬を迎えました。私は毎朝震えながら山城に登っていますが、この時期は木々の葉が落ち、下草もかなり枯れているので、地面に残された土塁や堀切もたいへん見やすい状態になっています。皮肉にもこうした寒い冬は、現地調査にとってベストコンデションであると言えそうです。

 さて、当センターでは、小中学生とその保護者が中世山城を見学する「いざ出陣!山城探検隊ー平成二十六年冬の陣ー」と銘打った体験学習イベントを、昨年11月に備前市の三石城跡で開催しました。全員が兜〈かぶと〉をかぶり、さらには幟旗〈のぼりばた〉を押し立てて登城し、城の歴史や石垣の構造などの説明を交えながら、約1時間かけて無事「本丸」に到着しました。参加者からは「三石に山城があることを今回参加して初めて知った。このようなイベントがあればよく分かる。」との御意見もあり、こうした企画が開催できて本当によかったと思いました。

 昨夏に開催された岡山県立博物館の企画展「岡山の城と戦国武将」の特別講座や先日開催した「考古学から見た古代と中世の社会」の講演会でも感じたことですが、各イベント参加者は“老若男女”といった印象があり、城はどうやら世代や性別を超えて興味をそそる文化財のようです。こうした多くの方々の御期待に添えるように、地域の歴史講座などにも出向くなどして、今後も総合調査の成果をお伝えしていきたいと考えています。

 また、このたび平成25年度に現地調査を実施した東備地域の城館跡をまとめたパンフレット「攻略!おかやまの中世城館第一巻(備前国東部編)」を刊行しました。取り上げた城跡は各地域で歴史的に重要な位置を占めたものを選び、発掘調査で明らかになった当時の姿も掲載しています。県内図書館・博物館や市町村教育委員会などに配布したほか、センターのホームページでも閲覧できます。この山城巡りに良い時期、ふるさとの山城の再発見に御活用ください。(S)

「いざ出陣!山城探検隊−平成二十六年冬の陣−」の様子 「攻略!おかやまの中世城館 第1巻(備前国東部編)」
「いざ出陣!山城探検隊−平成二十六年冬の陣−」の様子 「攻略!おかやまの中世城館 第1巻(備前国東部編)」

 第17号

城の名は・・・

 みなさんは城の名前をいくつか御存知でしょうか?

 城の名前は、築かれた場所にちなんで付けられていることが多いようですが、江戸時代まで使われていた城は、地域のシンボルとして親しまれていたこともあってか、様々な愛称を持っています。例えば、岡山城は黒い板で外装を施した天守から「烏城〈うじょう〉」、天守の外壁を漆喰で優美に塗り込めた姫路城は「白鷺城〈しらさぎじょう〉」、松江城は三角形の破風〈はふ〉屋根を千鳥にたとえて「千鳥城〈ちどりじょう〉」、熊本城は兵糧として植えられた銀杏にちなんで「銀杏城〈ぎんなんじょう〉」などとも呼ばれています。また、入城に際して、縁起のよい名前に改めることもありました。織田信長が美濃(岐阜県)の稲葉山を「岐阜」と改めたのはその一例です。

 しかし、戦国時代以前の城ともなると、呼び名が分からないものが大半です。江戸時代に編〈あ〉まれた軍記物や地誌などに登場する城名は、後に付けられたものなのです。わずかに残る当時の記録を調べてみると、「○○の城(構・要害)」などと、城が築かれた場所の名前で指し示していたようです。

  岡山県内でも、最近刊行された歴史書や地方誌まで含めて城の名前を検索すれば、相当な数にのぼるでしょうが、私たちが調査で訪れた城跡がその中のどの城に当たるのか、実は迷うことがあります。「××村に古城あり」と記された場所に、城跡が確認できれば、ことは簡単です。一方、複数の城名が伝わる場所で1か所の城跡しか見つかっていない場合や、岡山市北区上高田・御津勝尾にある「勝尾山城」・「信倉山城」・「船山城」のように複数の城名が同じ城跡を指している場合が往々にしてあるのです。逆に、複数の城跡が見つかっているにもかかわらず、1つの城名しか伝わっていない場合もあります。この場合、他にも文献史料に現れない城があるのかもしれませんし、複数の城の総称であることも考えられるでしょう。さらには、吉備中央町の「藤沢城」のように、同じ城名をもつ2つの城跡が隣り合う場所で見つかっている場合は、別々の城であるのか、文献の読み違えなのか判断がつきません。

 それぞれの城には、城主や合戦譚〈たん〉などの履歴があることから、その場所の比定を誤れば、間違った歴史をつくることにもなりかねません。そのため、こうした城名がどういう文献に記されているのか、その信頼性を確かめるために時代をさかのぼって慎重に追究する必要があると考えています。

 私たちは険しい野山に分け入って城と格闘する以外にも、こうした難問にも日々悩まされています…。(Y)

岡山城、又の名を烏城、金鳥城(岡山市) 「藤沢城」がある備前と備中の国境の山(吉備中央町)
岡山城、又の名を烏城、金鳥城
(岡山市)
「藤沢城」がある備前と備中の国境の山
(吉備中央町)


 第16号

造山古墳の再利用

 岡山県内最大で、全国でも4番目の大きさを誇る国指定史跡造山〈つくりやま〉古墳は、全長360mの前方後円墳で、遠くからもすぐにそれと分かる威容を誇ります。築造されたのは5世紀前半ですが、古墳時代が終焉を迎える頃にはすでに木々に覆われた小山のような状況であったと思われます。
 それから数百年、この小山に目を付けた人物がいたようで、造山古墳は陣所として活用されました。ふもとから32mの高さにある後円部の頂上は主郭として利用され、東・南側に築かれた土塁の高さは1.6mほどあります。また前方部の斜面を切り崩して複数の曲輪を造り出し、さらに後円部の南側斜面には竪堀を設けるなどして守りを固めています。
 この場所が陣所として利用されたことを示す最も古い文献は『中国兵乱記』(1615年)で、備中高松城を巡る攻防戦に際して毛利輝元勢が陣を置いたことが窺えます。また『好事雑報』第十八号(1879年)には「ツクリ山 雲州勢陣所一千人」と記されています。ただ、いずれも後の時代に著されたものであることから、確かなことは分かりません。しかし、この場所は毛利軍が陣を敷いた岩崎山と日差山に挟まれていることから、毛利勢の陣が敷かれた可能性は高いとする意見があり、肯けます。
 平地に臨む独立丘陵のような古墳は砦としてうってつけであったようで、造山古墳のような事例は、岡山県津山市美和山〈みわやま〉古墳、大阪府今城塚〈いましろづか〉古墳・貝吹山〈かいぶきやま〉古墳、奈良県黒塚〈くろづか〉古墳・中山大塚〈なかやまおおつか〉古墳、滋賀県雪野山〈ゆきのやま〉古墳、三重県池ノ谷〈いけのたに〉古墳など全国に認められます。古墳を利用した陣所などの構築は、古くは南北朝時代まで遡るようですが、その盛期は戦国時代とのこと。戦の激化が古墳の利用を促したのかも知れません。(U)

後円部斜面の切岸と曲輪 後円部頂部東側の土塁
後円部斜面の切岸と曲輪 後円部頂上東側の土塁


 第15号

あっ、貝だ

  山城を踏査する時、山道を行くこともあれば、道無き道を突き進むこともあります。吉備中央町藤沢城(ふじさわじょう)を踏査した際、城の守りである堀切からの攻略を試みました。そこで写真のものを発見。アカニシという巻き貝の貝殻です。
 瀬戸内海でも採ることができるアカニシは、サザエの代用食材としてよく使われる代物。藤沢城のアカニシがいつのものかはっきりしませんが、周りに民家があるわけでもなく、後からまぎれ込むような環境にはないため、当時のものではないかと考えています。
 海から遠く離れたこの場所で見つかったアカニシは、食用のために運ばれたものなのでしょうか。そう言えば貝の裏側が大きく壊れています。岡山城二の丸の発掘調査でもアカニシは出土していますが、その中には殻口に対して反対側に火を受けた痕跡や破壊された痕跡が認められる資料があり、発掘調査報告書では壺焼きを行った可能性が指摘されています。ただ今回のアカニシに火を受けた痕跡を見いだすことはできませんでした。それでは焼く以外の調理法で殻を割ることがあるのでしょうか。アカニシの中身を取り出すのは、湯煮すれば簡単ですが、生のままでは難しい。生のまま身を取り出すためには、どうしても殻を割らなければなりません。生の状態で取り出したアカニシは刺身として食されたり、酢の物や膾(なます)などの食材に用いたりします。アカニシは保存性に適した貝で、海水から取り出しても上に濡らした紙や藁などを被せて低温の場所に置いておけば数日は生存可能だとか。藤沢城のアカニシは、生きた状態で城内に持ち込まれて、身を取り出すために殻が壊された可能性もまったく無いとは言い切れません。藤沢城は毛利勢が伊賀氏の虎倉城(こくらじょう)を攻める際、陣を敷いたと言われています。今回見つかったアカニシは攻城戦に臨まんとする兵(つわもの)どもの食の跡かも?(U)

土塁と堀切 堀切で見つけたアカニシ
土塁と堀切 堀切で見つけたアカニシ


 第14号

備中高松城水攻めの舞台

 ここ最近は吉備中央町での現地調査が続いています。同町を往復するときは、JR吉備線のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』ラッピング列車(キハ47形)と時折すれ違いながら、岡山市北区立田・高松原古才にある備中高松城の水攻築堤跡のそばを通ります。ちょうど梅雨の時節、このあたりは天正10年(1582年)の旧暦5月に羽柴秀吉による備中高松城水攻めの舞台となったところです。  天正10年、羽柴秀吉は織田信長から中国地方の制圧を命じられ、同地方の大半を領有していた毛利氏と激しい攻防を繰り広げました。その最前線となったのが、備中高松城。高松城は沼地に囲まれた小高いところに築かれた自然の要害で、勇将の清水宗治(しみずむねはる)が城主として守りを固めていたことから難攻不落とされていました。そこで、高松城を攻めあぐねていた秀吉に黒田官兵衛が水攻めを進言したと伝えられるエピソードはよく知られるところです。しかしそのエピソードの陰には、水攻めに耐え忍んだ高松城の籠城抗戦と、本能寺の変による事態の急変の末、この戦いを和談により終結させるため、自らの命にかえて城兵を救った高松城主清水宗治らの悲劇も忘れてはならないでしょう。
 高松城跡附水攻築堤跡は昭和4年(1929年)12月17日に国史跡として指定され、現在は「高松城址公園」・「高松水攻め史跡公園」として整備されています。高松水攻め史跡公園では現存する築堤跡と岡山市教育委員会の調査成果に基づく堤内部の複製展示により、堤の大きさが体感できたり、堤がどのように造られたのかを学ぶことができます。また、公園の築堤跡から南西(国道180号やJR吉備線)を望むと、現在の田畑や宅地の地割りに築堤の名残りを見つけることができるかもしれません。  この史跡を訪れると、天正10年の備中高松城水攻め、その最中に起こった本能寺の変と織田信長の横死、明智光秀を討つために秀吉が行った「中国(備中)大返し」と呼ばれる軍団大移動など、天下統一に向かって日本の歴史が激しく動いた一場面に立ち会うことができるでしょう。ちなみに備中高松城跡と水攻築堤跡の現地調査は今秋頃に行う予定。今から期待が高まります。(Y)

吉備線から備中高松城跡と水攻築堤跡を望む写真 築堤跡の上を走る?キハ47形の写真
JR吉備線から備中高松城跡と水攻築堤跡を望む。現在、最上稲荷山妙教寺の大鳥居は塗装工事中。 築堤跡の上を走る?キハ47形(備中高松〜吉備津間)
蛙ヶ鼻の築堤跡と整備された高松水攻め史跡公園の写真 復元された堤の内部の写真
現存する蛙ヶ鼻<かわずがはな>の築堤跡と整備された高松水攻め史跡公園 復元された堤の内部。堤の底から多数の木杭や土俵などが見つかりました。

 第13号

調査初日から遭遇

 今年度の現地調査初日には、吉備中央町指定史跡の伊達弾正<だてだんじょう>館跡に踏み入りました。伊達弾正朝義<だてだんじょうともよし>は奥州藤原氏の出で、秀衡<ひでひら>の子泰衡<やすひら>の玄孫にあたる人物です。尾根先端の頂部に位置する居館跡の防御は厳しく、曲輪の三方は高さ2mを超える土塁で守り、残る方面は斜面を急峻に削って切岸を造成していました。切岸の高さは9m程で、居館から攻撃を受けなくとも登るのには難儀します。
 調査当日にはさらなる館の守り主と出会いました。ヘビです。すっかり温かくなりましたからね。4月下旬のこの日はすでに夏日・・・。
 中世城館の現地調査では、当然のことながら山林を分け入る必要があります。人の気配が少ない城地にはヘビやハチなどが自由に活動しています。彼らからすると、私たち調査員のほうがよそ者ですし、邪魔者なのでしょう。お互いにちょうど良い距離感を保ちつつ、調査を無事に遂行したいものです。
(U)

調査員の行く手を阻む土塁の写真 城内で出くわしたヘビの写真
調査員の行く手を阻む土塁 城内で出くわしたヘビ

 第12号

現地調査、始めました

 4月から平成26年度の調査を開始しました。今年度は、浦上氏やこれに対峙した松田氏などを打ち破り、織田氏や毛利氏と巧みな駆け引きを繰り返しながら地力を付け、後に備前・美作と備中東部を支配する有力大名に成長した宇喜多氏の本拠地である岡山地域(岡山市・吉備中央町)の調査を行います。その成果はこの「調査員だより」でも随時紹介しますのでご期待ください。このほか、昨年度の成果をまとめたパンフレットの作成や体験学習イベント(当センターホームページの「イベント情報」をご覧ください)なども計画しています。興味のある方はぜひご参加ください。
 なお、今年度の担当者は昨年度に引き続いて担当する地元岡山生まれのSに、山陰生まれのYと九州生まれのUを加えた3名です。どうぞよろしくお願いします。
(S)

吉備中央町百坂城跡と豊岡川と亀の親子日なたぼっこ中の亀の親子
豊岡川で日なたぼっこする亀の親子。吉備中央町百坂城跡を望む?
小森古城跡調査中の調査員の姿
虫除けのため頭にネット、足にスパッツを付けて吉備中央町小森古城跡を調査中。でも、姿が怪しい…

 第11号

城図面の作成

 山城の規模やつくりを正確に記録するために、現地の測量は欠かせませんが、険しい山の上まで測量機材を運び上げるのは容易なことではありません。また、巻き尺や箱尺を用いた簡易な測量も行われていますが、これでは起伏が激しく木々が生い茂った山城の姿を正確に描くには相当な困難が伴います。
 そこで今回は、GNSS(汎地球測位システムといい、これまでGPSの略記が使われていました)測量を試みることにしました。これは、2万m上空を周回する人工衛星の電波を受信して位置を計測するもので、車や船、航空機といった乗り物のほか、最近では携帯電話にも搭載されています。使用する受信機は長さ25cm、幅10cmほどの大きさで、片手で持つことができます(写真1)。これを使って曲輪(くるわ)や堀などの要所要所を計測してその座標(または緯度経度)を図面に落とし、それらを繋(つな)げば簡単に山城の図面を描くことができるのです。
 しかし、このGNSS測量にも欠点があります。それは電波を反射もしくは歪めてしまう障害物の近くなどでは誤差が大きくなる傾向があり、さらに衛星の位置関係によっても誤差が生じてしまうことです(ただし補正プログラム等で解消することは可能です)。また、高さ(標高)も計測することができますが、平面座標に比べると精度が落ちるようです。それでもいろいろと試行錯誤を繰り返しながら、少しでもよい図面をつくろうと日々奮闘しているところです。
(Y)

GNSS受信機 計測した地点の表示
     写真1 GNSS受信機
今回使用している機械です。重さは約1kgあります。
  写真2 計測した地点の表示
自分が計測した地点を表示できます。(この城では100か所程度測りました)。