高屋〈たかや〉城跡ほか    井原市高屋町 



 岡山県と広島県の境は、昔は備中国と備後国の境でもありました。この県境付近に位置する岡山県井原市高屋町。ここに流れる高屋川の流域には、戦国時代の山城が多く築かれています。今回はこれら山城群と、それにまつわる合戦の話をしたいと思います。

藤井氏の蜂起
 尼子〈あまご〉氏を倒し中国地方の中・西部の大半をその手中に収めた毛利〈もうり〉氏は、永禄〈えいろく〉12(1569)年、大友〈おおとも〉氏と対決すべく北九州へ主力の軍勢を移していました。その陣中に驚きの知らせが届きます。「備後神辺〈かんなべ〉城が奪われる」という報告が。神辺城は広島県福山市に位置し、毛利氏にとっては勢力圏の東端にあたる備後地域支配のための要となる城です。この時、この城を奪取したのは藤井皓玄〈ふじいこうげん〉。井原市芳井町を本拠とする国人です。かつて神辺城は尼子方に与した山名〈やまな〉氏が治めており、藤井氏はこの城主に従っていました。しかし、次第に備後における毛利氏の影響力が強くなり、城主は毛利方の杉原〈すぎはら〉氏に代わります。これを不服とした藤井氏は、この事件の10年ほど前にも、同じく芳井町の国人で叔父の河井〈かわい〉氏とともに神辺城攻略を考えていました。この計画は事前に露呈し、叔父は殺され自らも京へ逃げる結果となってしまいます。その後逃亡生活を強いられた藤井氏にとって、神辺城奪取は長年の宿願だったわけです。

高屋川〈たかやがわ〉流域の城
 ここで紹介する高屋川流域に残された城は、この騒動に関連したものと考えられています。わずか3㎞ほどの間に、落石〈おちいし〉城・高屋城・吉谷〈よしだに〉城・山手〈やまて〉城・小見山〈こみやま〉城という5城が築かれており、井原市域で最も山城が密集する地点です。この地域は、藤井氏の本拠である井原市芳井町と神辺城の中間地点にあたります(図1)。またこの時の状況を記した小早川隆景〈こばやかわたかかげ〉の書状(1)に、「藤井氏が山野〈やまの〉(福山市)と吉井〈よしい〉(井原市芳井町)の間に城を築いた」と書かれています。まさにここに残された山城群のことを言っているのだと思われます。これらの山城を、北に位置するものから見ていきましょう。
落石城
 全長約180m・比高差90mの山城で、5城のうち最も上流に位置しています。尾根筋の高所に曲輪〈くるわ〉群を配置した連郭〈れんかく〉式の山城で、派生した3方向の尾根筋すべてを掘切によって切断しています。特に鞍部に築かれた堀切〈ほりきり〉はしっかりとした造りです。
高屋城(写真1)
 全長約150m・比高差190mの山城で、旧芳井町方面から続く標高250m級の山塊が高屋川と接する裾部端に位置します。主郭〈しゅかく〉を含め各曲輪は、方形を呈しています。鞍部にある堀切は5条も築かれ、その間には土塁〈どるい〉が配されます。主郭北側斜面には、確認しただけでも17本以上の竪堀〈たてぼり〉が築かれ堅固な守りとなっており、5城の中でも一番防御力が高かったと思われます。先ほどの小早川書状には、「高屋要害」と記されていました。
吉谷城
 全長約130m・比高差200mの山城で、谷を挟んで北東の尾根に高屋城が位置しています。この城の特徴は、頂部の大半を幅約1.5m、高さ約0.5~1mの土塁で囲んでいることです。その全長は、約80×40mの範囲になります。また、石塁〈せきるい〉が部分的に残る箇所もあります。土塁で囲まれた内部は自然地形のままであり、一時的な陣として機能していたものと思われます。
山手城
 全長約120m・比高差70mの山城で、高屋川を挟んだ東側向かいには小見山城、北側には吉谷城と高屋城が近接しています。主郭は約40×20mほどあり、その南北方向の両脇に曲輪を配する連郭式の城です。主郭南側直下の曲輪には石積が築かれた箇所があり、比較的厳重な造りであったことが窺えます。その先の尾根鞍部には、堀切が配されて城域を画しています。伝承では、高屋川を挟んで向かいにある小見山城との間で、矢を撃ち合ったと言われています。
小見山城(写真2)
 全長約420m・比高差140mの連郭式山城です。これら5城の中では最も南側に位置しており、頂部からは高屋川の谷筋と旧山陽道筋の合流地点を眺望することができます。主郭を含め、そこから南へ連なった4面の曲輪は、いずれも方形を呈しています。主郭北側の尾根鞍部には、4条の堀切が築かれそれぞれの間に土塁を設け、守りを固めています。これら主郭周辺の曲輪群から比高約25m南へ下がった箇所にも、曲輪8面を配する大きな山城です。地域の拠点となるような城だったと思われ、後に備中をも支配した毛利氏が城代を置いたと言われています。

高屋城跡 小宮山城跡
写真1 高山城跡(南から)
写真2 小見山城跡(南西から)

事件の結末
 さて、当初の目的を果たした藤井氏は、その後どうなったのでしょうか。神辺城落城を知った毛利軍はすぐさま反撃を開始、藤井氏は城を追われることとなります。しかも、本拠である井原市芳井町にも、防御のために築いた高屋川流域の城にも戻れず、浅口郡〈あさくちぐん〉西大島〈にしおおしま〉(現在の笠岡市)まで逃れたところでその生涯を終えます。しかし藤井氏の残党は、その後しばらく奮戦したようです。先ほどの小早川書状では、「高屋要害まで出陣したが藤井軍を追い払うことができず、援軍を派遣してほしいと要請してきた。」とあります。まさしく高屋城を中心に、これらの城群付近では、その後もしばらく戦闘状態が続いていたようです。これらの山城は一番南にある小見山城を除けば、いずれも全長が100m台の中型クラスの山城です。その規模は本拠地にするには小さいですが、戦闘に使うには十分な大きさです。これらの山城はこの戦いに使われたと考えられ、中にはこの時のためだけに造られた城もあったかもしれません。今でも高屋川が流れる谷筋に立つと、戦国時代の緊張状態が伝わってくるようです。

高屋城の評価  
 今回紹介した5城の中で最も防御力の高い高屋城についてですが、現在のように複数の堀切や竪堀を築いたのは、藤井氏ではなく毛利氏ではないかという説が有力視されています(2)。初めの計画失敗の後、逃亡中だった藤井氏が急遽築いたにしては、遺構が立派すぎるからです。高屋城に見られる方形の曲輪や複数の堀切(調査員だより第28号に堀切の写真掲載)は、後に毛利氏が城代を置いて改修したと考えられる小見山城に類似しています。現存する高屋城は、小見山城とともに毛利氏によって改修されたのかもしれません。

【参考文献】
 1 『広島県史』古代中世資料編Ⅴ 広島県 1980年
 2 『井原市史』Ⅰ 自然風土・考古・古代・中世・近世通史編 井原市史編纂委員会 2005年

 



高屋川流域の山城とその周辺
高屋川流域の山城とその周辺

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