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天下統一への道



毛利氏・三村氏・宇喜多氏と備中兵乱

 出雲月山富田〈がっさんとだ〉城において尼子〈あまご〉氏を滅ぼした毛利〈もうり〉氏は、岡山県内でも影響力を強めていきます。特に備中の有力国人であった三村〈みむら〉氏との間に強い結びつきを持ち、三村氏もまた毛利氏の力を背景に美作・備前方面に進出していきます。
  しかし永禄9(1566)年、三村家親〈いえちか〉は、久米南町興禅寺〈こうぜんじ〉において備前の宇喜多直家〈うきたなおいえ〉によって暗殺されてしまいます。翌年家親の子息元親〈もとちか〉は、親の仇である宇喜多氏を撃つべく備前に侵攻しますが、逆に敗北します。(明禅寺〈みょうぜんじ〉崩れ)。  
 その後も三村氏と宇喜多氏の対立は激化の一途をたどり、三村氏は毛利氏とともに、真庭市域の高田〈たかだ〉城や才田〈さいだ〉城を巡り、宇喜多氏と攻防を繰り返すのです。こうした中、毛利氏は、元亀3(1572)年には浦上〈うらかみ〉氏と宇喜多氏、そして天正2(1574)年には宇喜多氏と単独で和睦を結び、敵対していた直家を自らの陣営に引き入れます。これに不満を抱いた三村氏は、毛利方から離反。これに対し、毛利氏は三村氏を撃つべく備中に兵を進め、翌年に至るまで備中全域が戦場となるのです(備中兵乱〈びっちゅうへいらん〉)。この一連の戦いで、三村方であった倉敷市・矢掛町猿掛〈さるかけ〉城、高梁市国吉〈くによし〉城、新見市楪〈ゆずりは〉城、総社市荒平山〈あらひらやま〉城・美袋山〈みなぎやま〉城・鬼身〈きのみ〉城などはことごとく毛利方の手に落ちます。そして三村元親の高梁市備中松山〈びっちゅうまつやま〉城、上野〈うえの〉氏の岡山市・玉野市常山〈つねやま〉城が落城し、ここに三村一族は滅びました。  
 一方宇喜多氏は、この間に主家であった浦上氏を和気町天神山〈てんじんやま〉城から追い払い、備前全域と美作の一部を支配下に置きます。その後、宇喜多氏と毛利氏は高田城を攻略し三浦〈みうら〉氏を滅亡させ、また宇喜多氏は美作市三星〈みつぼし〉城を攻め後藤〈ごとう〉氏を滅ぼします。ここに岡山県内は、おおよそ東半を宇喜多氏、西半を毛利氏の勢力圏に二分され東隣の播磨に迫った織田信長〈おだのぶなが〉配下の羽柴秀吉〈はしばひでよし〉と対峙することとなります。


宇喜多氏と毛利氏との対決

  天正5(1577)年から始まった羽柴秀吉による中国攻めは、天正6(1578)年になると播磨三木〈みき〉城の別所長治〈べっしょながはる〉が寝返り、また摂津有岡〈ありおか〉城の荒木村重〈あらきむらしげ〉が離反するなど、当初織田方に不利な状況が続きます。この間宇喜多氏も、毛利氏と共闘して播磨に出兵しています。しかし同年大阪湾の木津川〈きづがわ〉口の戦いにおいて、織田方の水軍が鉄甲船を用いて毛利方水軍を退却させてから、次第に戦況が変わっていきます。
 このような状況の中、天正7(1579)年になると宇喜多直家〈なおいえ〉は織田方につき、毛利氏から離反します。これに対し毛利軍は各地で反撃を開始します。備前と備中の境では、岡山市忍山〈しのぶやま〉城に毛利軍が迫り、これを攻略。また津山市医王山〈いおうやま〉城に宇喜多方が攻囲戦を開始すると、毛利氏はこの城の救援を目的として美作にも侵攻します。まず備中と美作の境のある真庭市四ツ畝〈よつうね〉城を攻略し、その後現在の真庭市・津山市西部へと迫ります。翌年には、この地域にあった真庭市小寺畑〈こてらはた〉城・大寺畑〈おおてらはた〉城・篠向〈ささぶき〉城、津山市宮山〈みややま〉城・岩屋(いわや)城などの諸城はことごとく毛利方の手に落ちました。この時に毛利方が陣として使った城が真庭市陣山〈じんやま〉城と注連山〈しめやま〉城で、両城とも長大な尾根筋に多くの曲輪を連ねた構造であることから、毛利方がこの時の攻撃に大軍を用いたことが窺えます。備前においては、辛川〈からかわ〉合戦と虎倉〈こくら〉合戦において宇喜多方が勝利を収めますが、両者の争いは一進一退であり、予断を許さない戦況が続きます。そんな中、直家自身も病に倒れてしまいました。
 天正10(1582)年になると、備前児島の大崎で両者は衝突します(八浜〈はちはま〉合戦)。玉野市麦飯山〈むぎいやま〉城に拠〈よ〉る毛利方穂田元清〈ほいだもときよ〉と玉野市両児山〈ふたごやま〉城に拠る宇喜多忠家〈ただいえ〉・元家〈もといえ〉が争い、宇喜多方では元家が戦死しました。このように宇喜多方が不利な状況が続く中、羽柴秀吉がいよいよ岡山に入ります。

備中高松城水攻めから天下統一

 羽柴秀吉は、備中にある境目七城の攻略を開始します。岡山市冠山〈かんむりやま〉城や宮路山〈みやじやま〉城を攻め落とし、備中高松〈びっちゅうたかまつ〉城に迫ります。備中高松城の攻略には、築堤を造り水攻めにしたのは有名な話です。対する毛利方では、毛利輝元〈もうりてるもと〉、吉川元春〈きっかわもとはる〉、小早川隆景〈こばやかわたかかげ〉が救援に向かいます。織田方も信長自身が岡山にやって来る予定でしたが、この戦いの最中に本能寺〈ほんのうじ〉の変が起こり、秀吉は急ぎ毛利方と和睦を結びます。高梁川を挟んで以西を毛利領、以東を宇喜多領とすること、清水宗治〈しみずむねはる〉の切腹などの取り決めは、信長の死をひた隠しにして結んだもので、その後にも尾を引くことになるのです。
 この取り決めにより、宇喜多側へ城を明け渡すこととなった毛利方の諸将は、これを是とせず抵抗を続けます。特に津山市岩屋城を守る中村〈なかむら〉氏は最後まで籠城を続けたため、宇喜多方の花房〈はなふさ〉氏は実力行使に打って出ます。砦と土塁を組み合わせた包囲網により、岩屋城を約6㎞に渡って完全に取り囲んだのです。このような混乱は、秀吉が権力を完全に掌握するまで続きます。この攻囲戦は中村氏が退去することで終了し、これをもって岡山における戦国時代は終わりを告げるのです。

【参考文献】
森 俊弘「年欠三月四日付け羽柴秀吉書状をめぐって-書状とその関係史料を再読して-」『岡山地方史研究』
      第100号 2003
森 俊弘「西美作、攻城戦のなごり」ふるさとの山城⑨『教育時報』通巻819号 2017


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