才田(斎田・佐井田)〈さいだ〉城跡    真庭市下中津井 



  中津井川の左岸にそびえる斎田山の頂きに築かれたこの城は、備前・備中・美作の国境が接する三飛峠の西方約10kmに位置しています。

才田城跡(北東から)
才田城跡(北東から)  

 城主と伝えられる植木氏は、備中国守護代を務める庄氏の一族で、天文年間(1532〜1555)に砦部〈あざえ〉庄(真庭市下呰部・上呰部付近)を支配していたことが史料にみえます(註1)。永禄2(1559)年の猿掛城合戦で毛利氏に敗れた庄氏とともに、尼子氏を頼って出雲に遁れますが、永禄12(1569)〜元亀2(1571)年頃に宇喜多氏の助力を得てこの城に入ります(註2)。元亀2年9月の佐井田合戦では毛利氏を撃退しますが、翌年に結ばれた講和によって、この城は毛利氏に引き渡されることになりました(註3)。
 天正2〜3(1574〜1575)年、備中松山城主の三村氏が毛利氏に叛いて戦った備中兵乱が起こると、毛利氏はこの城に籠もる三村方の部将を逐って城番を置きます。そして、天正7(1579)年には、毛利氏と断交した宇喜多氏の勢力をこの地域から一掃し、以後、両氏の争いの舞台は美作西部へと移ります。
 さて、標高340mの山頂から東西に延びる尾根筋に築かれたこの城は、東西240m、南北90mを測り、旧北房町でも屈指の規模を誇ります。城山神社が建つ主郭の西側には2条の堀切を設けて尾根筋を遮断し、東側には高く急峻な切岸を備えた曲輪を何段にも連ねた連郭式の山城です。また、南斜面には城井戸と伝わる遺構も残っています。

主郭(東から)
主郭(東から)  
堀切(南から)
堀切(南から) 

 敵を容易に寄せ付けない堅固な造りの才田城跡には、同時代史料が数多く残り、群雄の争奪の的となったこの城の歴史を今に伝えています。


【註】

  1. 「アサ井ノエキ殿」と書かれた天文10(1541)年の史料(『久世町史』編年史料130)や、布施荘(真庭市蒜山上徳山から蒜山下長田付近)の福田神社に「天文一八弥生吉日 砦部城主植木下総守武運長久?攸」と刻まれた銅鉾が伝わっている。
  2. この時に、浦上宗景が築城したとも伝わります(『久世町史』編年史料474)。
  3. 『閥閲録』巻三三 粟屋勘兵衛65 『萩藩閥閲録』第一巻

【参考文献】



才田城跡アクセスマップ
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