庭瀬〈にわせ〉城跡    岡山市北区撫川〈なつかわ〉・庭瀬 



 現在は、JR山陽本線庭瀬駅西側の住宅地となっていますが、かつては足守川の河口に広がる沼沢地に立地していました。港に接したこの平城は、岡山城や備中高松城とも道で結ばれており、水陸交通の要衝として重要な位置を占めていたようです。
 庭瀬城のはじまりは明らかではなく、築かれた場所についても定かではありません。ただ、天正年間には城代として毛利氏の部将が在城していることから、宇喜多領との境界にある「境目七城」の一つとして重視されていたようです。
 天正10(1582)年、備中高松城をめぐる戦いに際して、この城でも激しい攻防戦が繰り広げられました。その後、宇喜多領となったこの城には重臣の岡利勝〈おかとしかつ〉が入城しますが、この際に整備された「本壇」が、現在、県史跡に指定されている「撫川城跡」と推定されています。幅15mの堀を掘削した土砂を盛り上げて造成した曲輪は、東西77m、南北57mあり、その南辺の中央には渡り土手を築いて出入口を設けています。また、一部に土塁が残る曲輪の周囲には、自然石を野面積みした石垣が築かれています。

撫川城と水堀
撫川城と水堀
曲輪を巡る土塁
曲輪を巡る土塁


 さて、慶長4(1599)年の家中騒動を機に宇喜多家から離れた戸川達安〈とがわみちやす〉は、関ヶ原の戦いの功により、翌年この地に入って庭瀬藩(2万9千石)を開き、「撫川城跡」の東側に藩庁(陣屋)を設けました。江戸時代の絵図によると、清山神社と公園の周辺が「内屋敷」、「馬場」、「庭園」を配した御殿にあたるようです。神社の周囲には内堀が、さらにその200m北側にある「表御門」の前には外堀がめぐっていました。この表御門は、岡山城下と支藩のある鴨方を結ぶ鴨方往来に向かって開いており、庭瀬はその宿駅としても大いに賑わったようです。
 戸川家は4代で断絶しますが、一族の達富〈みちとみ〉が旗本(5千石)として「撫川城跡」に知行所を置きました。その後、庭瀬藩は、久世家(5万石)、松平家(3万石)、板倉家(2万石)と藩主が変わりながらも明治時代まで存続します。

清山神社と内堀
清山神社と内堀
外堀(「表御門」)付近
外堀(「表御門」)付近

  現在、この一帯はすっかり家並みに飲み込まれ、かつて城を守っていた水堀も農業用水となって、その存在をうかがわせるものはあまり見当たりません。しかし、細い道が入り組む様子や、板倉家伝来の甲冑や陣羽織を納める清山神社のたたずまいは、陣屋の風情を今に伝えています。また、水堀で囲まれた「撫川城跡」には知行所の総門が移築されています。近年は、最近の街並み整備に伴って城跡の標示や「絵図」を使った案内板が設置されるとともに、街角に残る道標や常夜灯を紹介するなど、往時をしのばせる工夫が随所に凝らされています。

町中にある解説表示
町中にある解説表示

*JR庭瀬駅から徒歩約5分。

庭瀬城跡アクセスマップ
庭瀬城跡アクセスマップ

 参考文献

・亀井政男「備中庭妹城の成立過程から近世城郭構想への展開−撫川城問題の解明のために−(上・下)」『岡山地方史研究』92号・93号 岡山地方史研究会 2000年

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