金川〈かながわ〉城跡    岡山市北区御津金川 



 金川城は、旭川と宇甘川〈うかいがわ〉の合流点を見下ろす標高225mの臥龍山〈がりゅうざん〉山頂を中心に築かれており、岡山県を南北に結ぶ旭川の水運と、吉備高原を横断して高梁に至る陸路が通る交通の要衝を押さえた立地となっています。

金川城跡遠景
臥龍山頂部に金川城はあります


 金川城を拠点とした松田氏は、南北朝時代に備前国守護を務めたことが知られ、戦国時代には備前西部を根拠地として備前国守護代の浦上氏と対立します。しかし、永禄11(1568)年には浦上氏に従う宇喜多直家によって金川城が攻略され、松田氏は滅亡しました。その後、この城は宇喜多氏の支城として利用されたようです(最近の研究では、宇喜多直家が岡山城に入る前、ここに在城していた可能性が指摘されています)。関ヶ原の戦いを経て江戸に幕府が開かれた後、池田利隆〈いけだとしたか〉が岡山在城の頃(慶長8〜18(1603〜1613)年)には、日置忠俊〈ひきただとし〉が金川の古城の修築を命ぜられたとする記録があります。 この後、慶長20(1615)年の一国一城令により廃されました。

 さて、山頂から南北へ連なる長さ200m、幅50mほどの尾根上には、本丸と二の丸を並べて配しています。78×35mほどの広さがある本丸は、谷筋に面した北東側に土塁を築き、大手にあたる南西側に帯曲輪や竪堀群を配して守りを固めています。周囲には低い石垣をめぐらせていたようですが、廃城に際して破却されたためか残りはあまりよくありません。二の丸と接する南東側は塁線を前後にずらして虎口(こぐち)を開け、その外側には枡形(ますがた)と呼ばれる広場を設けています。織豊系城郭において発達したこのような出入口の構造は、豊臣政権下で重きをなした宇喜多氏が領国支配の拠点としてこの城を改修した際に採用されたものと考えられていて、この城の見どころの一つとなっています。

本丸を守る土塁
本丸を守る土塁
虎口と枡形
虎口と枡形

  本丸より一段低い二の丸は、東側や西側に帯曲輪を配するほか、旭川に向かって下る三方の尾根筋にも曲輪を設けています。特に北東に向かって緩やかに延びる尾根は、階段状に造成された曲輪群とその下方へ掘削された竪堀群によって厳重に防御しています。また、本丸から南西に延びる尾根筋にも180mにわたって道林寺〈どうりんじ〉丸と呼ばれる10段ほどの曲輪を設けており、尾根の先端近くには高さ2mあまりの石垣をめぐらせた場所(道林寺跡?)も見られます。

  さらに本丸の背後となる北側には、石積みの井戸が残る鞍部を隔てて60×50mほどの広さをもつ北の丸を配し、その先には二重の堀切によって尾根筋を遮断しています。堀切は幅4〜5mと大規模なもので、尾根伝いの侵入に対して強く警戒していたことがうかがえます。

  なお金川城では井戸跡が3基確認できます。最大の井戸は「天守の井戸」と呼称されるもので、直径5m程、深さは現状でも7〜8mはありそうです。岩盤を掘り抜いた井戸で、旭川まで通じているという伝説まであります。
堀切
堀切
天守の井戸
天守の井戸

 このように金川城は、山頂とそこから派生した尾根に曲輪を配した連郭式山城です。500×500mにも及ぶその城域は備前でも最大級の広さで、備前西部を支配した名族松田氏の居城に相応しい威容を誇っています。

*JR津山線金川駅の北800mにある妙覚寺西側の登城口から本丸まで徒歩40分。なお登城口近くの御津郷土歴史資料館には、金川城跡で見つかった遺物が展示されています。詳細は資料館にお問い合わせください。

岡山市御津郷土歴史資料館 
〒709−2133 岡山市北区御津金川529−1
Tel 0867−24−3581
  

金川城跡アクセスマップ
金川城跡アクセスマップ

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