陣山〈じんやま〉城跡    真庭市久世 



 岡山県真庭市にあるJR姫新線の久世駅。今回紹介する陣山城(写真1)は、この駅の北側にある久世神社の裏山に築かれています。神社の脇から尾根筋を上がっていくと、まもなく曲輪〈くるわ〉と呼ばれる地形を平坦に造成した遺構(兵の駐屯地)が見えてきます。このような曲輪が、東西に細長い尾根筋全体に歩けど歩けど幾十にも連なって続いているのです。その数、大小約250。岡山県内の山城の中でも桁違いの数です。総延長は、実に約1.8㎞にもなります。

陣山城跡
写真1 陣山城跡


 それでは、この城がどのような構造だったかを見ていきます。城域に当たる長い尾根筋には、15か所ほどの頂部があります。この頂部に20m前後のやや大き目の曲輪を設け、さらに各頂部間を埋めるように5~10m前後の曲輪を連続して築いています。まさに曲輪同士を繋いで、長大な城にしているのです。しかし、これだけ大規模であるにも関わらず、通常の城によく見られる堀切〈ほりきり〉や竪堀〈たてぼり〉と言った防御施設がほとんど存在しません。曲輪を数多く連ねるのが本城の最大の特徴であったようです。15か所ある頂部の曲輪の中でも、尾根筋の中央部よりやや東側にある箇所は40~50mと大きく、「安世比嶁〈あせびうね〉」と呼ばれる本陣であったと思われます(写真2)。この地点には、幅10m前後の石列を配した高まりがあり、虎口〈こぐち〉も見られるなど、他所よりも厳重な造りとなっています。

本陣跡
写真2 本陣(安世比嶁)跡

 このような大規模施設を、いつ誰が作ったのでしょうか。江戸時代に書かれた『作陽誌〈さくようし〉』には、「寺畑之戦敵屯此仍名陣山」という記述があります。この中にある「寺畑の戦い」とは、1580(天正〈てんしょう〉8)年に起こった陣山城の北側隣とその東隣の山塊にあった大寺畑〈おおてらはた〉城・小寺畑〈こでらはた〉城を舞台とした争いのことです。この2城は、当時備前を制し美作にも勢力を伸ばしていた宇喜多〈うきた〉氏が守っていました。そして「陣山」にいた敵とは、中国地方8ヶ国を領有していた毛利〈もうり〉氏のことを指すと思われます。つまりこの広大な山城は、毛利氏が宇喜多方の守る城を攻略するために築いたものだったのです。この城の平面配置を見ると、大寺畑城を半ば包囲しているように見えます(図1)。発掘調査によって陣山城よりさらに東側にある羽庭(はば)城にも遺構が続くことが確認され、毛利氏の包囲網はまさに小寺畑城まで迫っていたようです。

 そもそも毛利氏と宇喜多氏との間には、浅からぬ因縁があります。1570年前後から、備中や美作で度々衝突していた両者ですが、1574(天正2)年には和解し一度は手を組みます。その間毛利氏は備中の三村〈みむら〉氏を討ってその領域を直接手中に収め(備中兵乱〈びっちゅうへいらん〉)、宇喜多氏は主家であった浦上〈うらかみ〉氏を倒し備前・美作での支配力を強めます。しかし東方から次第に織田信長〈おだのぶなが〉が勢力を伸ばしてくると、1579(天正7)年、宇喜多氏は毛利方を離れ織田氏と手を組みます。これ以後、岡山県内各地で両氏による合戦が続いていくのです。特に陣山城のあった真庭市周辺は出雲道と大山道が交わる要衝の地で、大寺畑城・篠向〈ささぶき〉城・宮山〈みややま〉城など当時地域を代表する山城が集中する場所でありました。毛利氏がこれらの諸城を攻略するためには拠点が必要であり、その場所の一つが陣山城であったと考えられています。曲輪を数多く連ねる構造から、この城の築城目的はより多くの兵を駐屯させることだったのでしょう。ちなみにこの時の攻勢で、大寺畑城を含めたこの地域の諸城は、ことごとく毛利氏に降ることになるのです。

【参考文献】
 久世町教育委員会「羽庭城」『久世町埋蔵文化財発掘調査報告』3 1999年    
 森俊弘「西美作、攻城戦のなごり」ふるさとの山城⑨『教育時報』平成29年12月号 2017年



陣山城跡アクセスマップ
「寺畑の戦い」関連山城、陣山城跡アクセスマップ

久世神社まで米子自動車道久世ICから約6㎞、JR姫新線久世駅から約800m。
神社から最初の曲輪までは徒歩10分ほどですが、城全体を見るには徒歩100~120分程かかります。

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