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山田方谷は、文化二年(1805)に備中松山領阿賀郡西方村(現高梁市中井町西方)に生まれた政治家・教育者です。政治家としては、幕末の備中松山藩の藩政改革や江戸幕府の老中首座となった藩主板倉勝静の政治顧問として幕政にも関与するなど大きな業績を残しました。一方、教育者としては、陽明学などの学問を修め、藩校や家塾において三島中州や河井継之助[]など多くの門人を教育し、世に送り出しました。
今、山田方谷が注目を浴びている理由はなぜでしょう… それは、幕末の時代、疲弊した備中松山藩を奇跡的に立ち直らせた人物として、多くの課題を抱えて生きている現代人の注目を集めているのではないでしょうか。
方谷が生まれた場所は、今でも当時の面影を残す自然豊かな場所です。また、周辺には方谷ゆかりの地が多く残っています。「山田方谷」を、少しでも身近に感じ、その足跡をたどって見てはいかがですか。
■山田方谷の足跡とその人柄
幼少の頃、親元を離れて新見藩の丸川松隠に学び、その後江戸に出て陽明学を修めました。32歳の時備中松山に帰り藩校有終館の学頭(校長)を務め、また家塾牛麓舎を開き教育に専念していましたが、板倉勝静が藩主になると45歳で元締役兼吟味役(今でいう財務大臣に相当)に抜擢されました。藩の財政責任者となった方谷は、様々な方策を実施して藩政改革に積極的に取り組み、わずか7年で10万両もの借金を返済し、後に10万両の蓄財に成功したのです。さらに明治維新では、朝敵とみなされた備中松山藩を無血開城に導き、城下を戦火から救いました。
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明治になってからは、長瀬塾や小阪部塾を開いて子弟教育にあたり、多くの人材を世に送り出すとともに、閑谷学校の再興にも力を尽くしています。これが方谷の足跡のほんの概要です。
藩政改革や幕政参画・幕末動乱期において、『至誠惻怛[](誠意を尽くし人を思いやる心)」と「士民撫育[](すべては藩民のため)』の精神や、『事の外に立ちて事の内に屈せず(大局に立ち目先の問題にとらわれない)』などの理念で藩政改革を実行したというだけでなく、自ら範を示しながら『誠』をもって人間教育を実践した人であったようです。 |
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